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富山売薬

 富山売薬は、富山藩二代目藩主前田正甫(まさとし)が、江戸城で急病になった大名を薬で救い、各大名から薬の販売を頼まれたことがその始まりとされています。
 昔から薬売りは全国を歩き回り、薬を配置し、ふるさとへ帰ると”薬種商”(やくしゅしょう)で原料を仕入れ自ら処方して次の旅の準備を整えました。

 ここ「金岡邸」では”売薬王国とやま”の成り立ち、発展の秘密など、300年の歴史をつぶさに紹介しています。

先用後利

 江戸時代に取り入れられた一種のクレジット商法(長期信用取引制度)。
 お得意さんに先に薬を預けておいて、後に使用した分だけの代金を頂くこのシステムは、現金収入の少なかったこの時代に大変喜ばれ、富山売薬の発展、存続の大きな要因の一つとなりました。

柳行李

 富山の薬売りのトレードマークともいえる柳行李(やなぎこうり)は、重さが20kgもあります。これを背負い、毎日20〜30kmの道のりを歩いたり、船便を使ったり、時には馬の背に乗せたりして行商しました。

 中には、薬の他に、懸場帳(かけばちょう)やそろばん、お得意さんへのおみやげ品の紙風船などが入れてありました。

五千年の知恵の結集(薬の製造)

 原料を粉にするために使われた薬研(やげん)。

 売薬さんや職人たちが、技と勘を駆使して薬を製造していました。

 薬効のある鹿の角生薬を混ぜ合わせ、散薬、丸薬、煉薬などに成形していました。

薬の原料

「ジャコウジカ」の剥製(中国科学院から寄贈された貴重なものです。)

 肩までの高さわずか40cmの小柄な成獣。
 中国やチベットの高山を駆け回ります。雄は、腹部に香袋を持ち高貴薬に使われます。

 原料の大部分は、中国など東南アジアから輸入した最高の生薬。
 富山の薬種商がそれらを仕入れて“売薬さん”に販売していました。

売薬版画

 おみやげ品のひとつとして人気があった“売薬版画”。
 各地の庶民文化を刷り込んだ絵紙は、三都(江戸、大阪、京都)などの中央から、遠く離れた所に住む地方の人々に対し、文化的情報とともに、夢も与えていました。

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